〚ラウマ旧市街散策≪RAUMA‐KÄVELYKIERROS≫〛
ラウマはフィンランドにある中世時代からの6つの都市のひとつに数えられ、都市の設立権限は1442年に得ています。現在、この沿岸都市の人口は37000人ほどです。ラウマ旧市街の住民は、現在、約750人程です。地域には、約250の敷地があり、その中には600軒ほどの建物が建ち並んでいます。最も小さな敷地面積は200m2で、全領域の面積は30ヘクタールです。1600年代から1800年代の初めまで、町は柵(tulliaita)で囲まれていて、その当時にはほとんど拡大していません。そして1800年代半ばまでに都市構想地域(asemakaava-alue)は僅か1ブロック拡大しただけで、旧市街おいては細い曲がりくねった小道、様々な大きさの敷地などは昔のままに残されています。町は1682年以来、火災にあっていません。そのため格子状都市計画は各々の時代にあっても実現することがなかったのです。
ラウマの旧市街、北欧で最も広い木造建築の地域に親しむのには、散策が一番です。地域の敷地分割と道路めぐりは中世時代に典型的なもので、その建物の大部分は1700、1800年代からのものです。建物の数々の詳細部分は、多才な手職人の専門的技術とその趣向を物語っています。ラウマは、その特殊な産業、海、大きな港、息づく伝統手工芸、独特な方言、特にラウマの旧市街で知られています。
この散策は聖十字教会から始まります。(1)これは以前の修道院教会で、1400年代の半ばに建てられ、現在はラウマ市と地方の教区教会として運営されています。教会の白い塔は、1816年になってから付け足されたもので、海を航行する人びとへの目印となっていました。教会の前にはフランシスコ修道士の像があり、教会建造者たちの記念に立てられたものです。この彫刻の製作者はユッシ・ヴィカイネン(JussiVikainen)です。
教会の橋下にはラウマ川が海に向かって流れています。この小川は後に内陸都市にも流れ、有名なラウマの河(RaumanGanal)と変わります。川岸の左側には黄色のエンパイア様式の学校があり、この建物は1827年からのものです。現在、これはラウマ民間専門学校によって使用されています。
教会橋(Kirkkosilta)を右にそれるヴァハカトゥ通りの家々の壁には、楕円形プレートが付けてあり、そこにはゴシック装飾文字で家の名前が表示されています。家の名で最古のものは1500年代にまでさかのぼります。これらの名前は、おもに住人の職業、家系、田舎からの移住者の故郷の名、ラウマの島々の名などがつけられています。
ヴァハコウルカトゥ通り(Vähäkoulukatu)とパッピランカトゥ通り(Pappilankatu)の交差にはカケラ(Käkelä)という名の2階立ての住居があります。この家の名は1500年代から使われ、現在の建物も1700年代からのものです。敷地を掘り返した時に人間の骨が発見されていることから、川の岸辺には修道院の墓地があったのではないかと推定されます。東側の戦争、つまりクリミア戦争の時代には、1855年にカケラに兵士たちが駐屯していました。
パッピランカトゥ通り(Pappilankatu)のつきあたりにはコルデリン(AlfredKordelin)の生家が見られます。(2)農務参事官コルデリンの生涯はラウマの貧困な船乗りの子の物語で、彼は大遺産を抱え、その財産を文明化のために使用したということです。
ランシカトゥ通り(Länsikatu)を曲がると、右側に幾つかの家があります。これらは、ラウマ市が老人たちに賃貸したものです。プアンドの門(Puandinportti)から見える赤い建物は新しいものです。散策はランシカトゥ通りからクニンカーンカトゥ通り(Kuninkaankatu)に進んで行きます。道の突き当たりには塔を持つ、新ルネッサンス様式の建物が見えます。前世紀の転換期に建てられた、以前のVPKの建物で、市庁舎として使われていました。この建物は1992年の初め、横わきに拡張部分を得ました。
快活な通り、クニンカーンカトゥ通り(Kuninkaankatu)はマーケット広場に続いています。(3)この広場の脇には1776年に建てられた旧市庁舎がそびえています。現在はラウマの博物館です。(4)この博物館では、おもにラウマ製の帆船模型や刺繍(ボビンレース)を見ることができます。マーケット広場では月曜日から土曜日まで朝市が開かれ、さらに6月からは夕市も開かれています。コーヒー屋台のわきでの『立飲みコーヒー』は、市場での伝統的な習慣です。〔このマーケット広場の一画に世界遺産の認定盤が刻まれています。4+〕
イソラーストゥヴァンカトゥ通り(Isoraastuvankatu)沿いをエテラピトゥカ通り(Eteläpitkäkatu)とパッピランカトゥ通り(Pappilankatu)に続き、散策をヘルシンキ広場(Helsingintori)に向かって進めます。(5)王グスターフ・ヴァーサは、1550年、ラウマの人びとにヘルシンキに町を設立する命令を下しました。話しによると、その出動人員たちは、ここに集まったということです。これがためか、近くにはヘルシンキ(Helsing)という名の家もあります。
広場には、ラウマの勤勉なレース編み娘を題材とした彫刻家ライケ(KaukoRäike)が1976年に製作した銅像があります。銅像の土台にはノルタモの本『RaumlaissiJaarituksi』からの引用が記されています。レース編み娘は、伝統的な、また何百年も続いた手工芸への敬意を表すものです。
旧市街のこの区域は、手職人や船乗りの住んでいた場所で、ナオルマキ丘(Naolmäki)と呼ばれています。パッピランカトゥ通りの右側には、この区域で最も素晴らしい家、ナオル(Naol)があります。ラウマで最も古くから残っている門を抜けると庭先に出ます。この門は300年近くになるものです。ここで旧市街の南側は終わり、丘のふもとから町人の畑や草原が広がっていきます。
散策コースを左に曲がると、イソマルミンカトゥ通り(Isomalminkatu)に出ます。クコラ(Kukola)とアントラ(Anttla)の家の間から小さな路地が逆戻りヘルシンキ広場につながっています。この路地はワッケルスカ・スンティ(Wakkerskasunti)と面白く名づけられています。この名は以前、旅先にあった市場の売人が使っていたということからきています。
散策はエテラピトカカトゥ通り(Eteläpitkäkatu)に続き、コースはクルマカトゥ通り(Kulmalankatu)を左に折れます。右側にある公園内には1400年代に建てられた聖三位一体教会の廃墟が見られます。(6)この教会は1640年の火災において全焼し、その後に聖十字教会が教区の教会となりました。
1850年半ばにいたるまで、古い教会墓地が埋葬に使われていました。その後に廃墟から約150m先にある場所、現在のラウマ旧墓地が使われていきました。(7)そこには特にコルデリンの祝福チャペル、英雄像、ノルタモの墓碑などがあります。
次には散策はカラトリ(魚市の意)に続きます。この近辺には手工芸や芸術に関連した数々の場所があります。
ヴァンハンキルコンカトゥ通り(Vanhankirkonkatu)を先に進み、右に折れるとイソポイッキカトゥ通り(Isopoikkikatu)に出ます。さらに右に曲がると主要通りのひとつであるカウッパカトゥ通り(Kauppakatu)に出ます。
1890年代、ラウマにはフィンランドでも最大の帆船の艦隊がありました。裕福となったため多くの建物には修復が加えられました。建物は高められ、装飾的な新ルネッサンス様式の外観を得ています。散策はカウッパカトゥ通りを右に折れると、最も装飾的に飾られた建物があります。マレラ(Marela)と呼ばれ、博物館のひとつです。(8)これは1800年代初期の建物ですが、新ルネッサンス様式に改装されています。素晴らしいタイル張り暖炉、鏡ドア、壁および天井のパネルなどがあり、非常によく保存されている建物です。このマレラは、造船業者の数々の家系によって所有されていました。
前方には、黄色のエンパイア様式の建物が見えます。これはラウマの美術館です。(9)ここでは芸術の展示品は毎月のごとく変わります。
次ぎの角を左に曲がると、フィンランドで最も狭い路に出ます。その名はキトゥクラン(Kitukränn)です。キトゥクランの路の先にある家は、ヨケラ(Jokela)という名です。(10)この家で、医者また文筆家であるヒャルマー・ノルタモ(HjalmarNortamo)が生まれています。彼はラウマの方言で物を書き、フィンランド文学に高度な方言話や船乗りの生活描写をとり入れました。
散策は道を越えて、ヴァハポイッキ通り(Vähäpoikkikatu)に続きます。川岸には、石造りの建物があります。ここでノルタモの父のノルドリングの工場、染色工房(värjäämö)と綿紡ぎ工房(villakehräämö)が運営されていました。現在、この建物は住居として修復されています。彫刻家ヴァイノ・アールトネン(WäinöAaltonen)が1930年に製作したノルタモの肖像は、クニンカーンカトゥ通りのわきにあるルイッカ(Ruikka)の公園にあります。
散策コースは、再びラウマ川を越え、小さな裏門から、つまりクリンカからキルスティ(Kirsti)という名の博物館の建物の庭先に抜けます。(11)この住居は、その大部分が1700年代からのもので、そこでは1800、1900年代の家の持ち主や賃貸家族たちの生活が展示されています。閉じた中庭には、馬小屋、牛小屋、地下倉庫と井戸が元来の場所にあります。正門には、ドアの覗き穴と特殊な鍵があります。
散策はポホヤンカトゥ通り(Pohjankatu)に続きます。この通りのわきには、中世時代のタイプである細長い敷地が、未だに幾つか残っています。この古い路地は教会に向っています。散策コースは左に折れ、工房の橋(Pajasilta)に沿って行きます。この橋の名は、橋のわきに以前、鍛冶屋の工房があったことによります。
クニンカーンカトゥ通りをさらに少し進むと、散策は再びマーケット広場に終わります。この周遊散策をとおして、ラウマの旧市街は念入りに保存されていることが分かります。ここは素晴らしい居住地であり、生きた活動的な町の中心部であり、特別な店々、サービスと観光場所を備えているものです。訪問客の方々には旧市街は、町作りの歴史を語り、さらにラウマの人びとには自分の都市の過去をも語っています。道や庭では人びとを通し、またイベントを通して身近なもの、そして親しいものとなるからです。保存・管理に関しては、ラウマ市、ラウマ旧市街協会、ラウマ旧市街連盟が、もちろん家の持主自身も自分の分にあって担っています。ラウマの旧市街は、北欧での歴史的木造建築の町を代表するものとして、1991年にユネスコの世界遺産の指定されました。